限りない”頑張り”からの解放 -endeavor-【round-3】

 定期的にスポーツや学術研究などの分野において「努力は裏切らない!」という議論が誘発する。

 よく頑張ったね!頑張った成果だね!

 私はこの労いの言葉に嫌悪感を抱く。

 あいつが”すごい”のは、頑張って努力して結果を出しているからだ。それに比べて自分は、、、

 今回の【rouund-3】は「限りない”頑張り”からの解放」です。どうぞ。

 ”頑張り”とは何か?

 頑張りとは、頑張るの名詞であるため、ここでは頑張るという行為について説明を行う。

 ”頑張る”とは、目標を達成する、あるいは、特定の原因または人への改革運動に従事するために、連続的に、活発に、または目立つように、力を発揮する苦難または逆境を通して生き続けるという意味である。

 私たちは頑張るの意義素は大まかに把握しているだろう。しかし、ここで大きな疑問が生まれる。

 それは”頑張りの価値”を誰が決めるのか、何を以て評価するのかという問題である。

 頑張ったとは、結果に対するものなのか、経過に対するものなのか、それとも両方なのか。大きさや比率は存在するのか。非常に曖昧といえるその言葉が現在の私たちの環境と成果を支配している。

「努力崇拝、頑張り主義」を強いられている昨今の情勢の中で、私たちは何に救済され、”限りない頑張り”から解放されるのか。

 今日は少し自分のことについて話す。

 私は今日に至るまでに様々な葛藤があり,生きることが辛いと思うこともあった.その葛藤とは,私の心の中に「自分は頑張らなければならない」という気持ちが存在し,それが行動の大部分を占めていたということにある.

 私は,これまで意図的に無理をし、自分を追い込む環境に身を置くことで頑張る状況を作ってきた。その成果として,学業や研究の分野において客観的に見て数字上では、年齢の割に成果を出してきた部類に位置しているだろう。

 しかし、その頑張りの先にあったのは,私は”もっと頑張らなければならない”,”ここまで頑張ってきたのだから”,と自分を追い込んでしまい,心や体に大きなストレスを抱えていた.つまり,「頑張らなければいけない,頑張らなければ結果が出ない,結果が出ないのは頑張っていないからだ」ということに囚われていたのだ.

 そして,頑張りの結果に対する劣等感や罪悪感恐怖欠乏感を埋めたいという一心で頑張ってきたことが,結果として自分の中にある劣等感や罪悪感,恐怖,欠乏感をさらに大きくしていた.また、良い結果を出した先には次の目標が生まれるため、その新たな目標のために頑張る。そして、その地点にたどり着くまでには見えていなかった劣等感や罪悪感,恐怖,欠乏感を生み出す。ここに”限りない頑張り”の源泉がある。

 これが「よく頑張ったね!」や「頑張った成果だね!」に対する嫌悪感の正体である。結果が出たのは自分が努力したためであるという言葉は、結果が出なかった時に頑張っていないということを意味する。

 つまり、結果の良し悪しに関わらず私たちは”限りない頑張り”から永遠に解放されることはないのである。泳いでも、泳いでも、岸にたどり着けない。でも、泳がないと沈んでしまう。気がつけば大きな波にのまれてしまうのだ。

 私は物事や課題に取り組む際に準備を入念に行う性格のため,失敗や挫折をした際は事前に,その物事の結果をおおよそ予想することが可能である.しかし,この世には対処できない不確実性が存在する.それはいわゆる“”と呼ばれるものである.事象に対しての結果はあくまで,運や結果であって,それを自分の“頑張り”が原因であると考えてしまうと希望も絶望もそこには存在しないと私は考える.

 それどころか頑張り続けた結果、自分を正当化しようとしてしまうリスクさえ存在する。

 努力や頑張りによって、ある程度の能力を得ただけで、実際には何も成果を出していないのに、「自分は頑張ってこれだけの能力を身につけた」と傲慢な考えに陥ってしまう。そして、周りに対して「あいつらは頑張っていない。頑張っていないから結果が出ないのだ。」という考えが生まれる。

 例えば、運動をすると「体力がついて運動ができるようになる」けれど、「運動が得意になる」ということは別のものであり、このニュアンスの違いを認識することは非常に重要である。

 この”限りない頑張り”という問題は、形は違えど皆同様の悩みを抱えているはずである。

 では、私たちはどうするべきか?

 頑張ることをやめればいいのか?しかし、目の前の現実から逃げる癖や負け癖は良くない。

 大切なのは前提認識を改めて、頑張りの結果、成果ではなく,自分が好きな物事に取り組むという姿勢を崩さないことだと思う。好きなことに挑戦,継続した後の結果であれば,全てを受け入れられる.結果や頑張り,損得や効率などを考えるよりも,何が好きか,何をしたいのか,自分は何になりたいのかを考え行動することを重視する.

 そして,その姿を周りに伝えることでさらに好きな自分が形成され,生活がしやすく,生きやすい環境になる.始めは”頑張る”という行為自体の考え方を改めるのは不安で何もできないかもしれない。しかし、自分が頑張ることをやめて,周りが期待するような結果にならなかったとしても,自分が好きなことを堂々と行うことに対して,親や兄弟が私を愛さない理由にはならない.また,親しい友人が離れていくということもない.むしろ,そんな私を歓迎してくれることに気づかされた.私は“好きなことをする“ことこそが希望であると考え,どのような結果になろうと「大丈夫」,「なんとかなる」という余裕を持ち,課題を設けず,進んでいきたいと思う.

 今までがうまくいってたから、明日もうまくいく。今までがダメだったから、明日もだめ。そんなことはない。昨日までがどうだろうと、今日はどうするか、明日はどうなるか。それと向き合って、考えて初めて私たちは前を向ける。

 ”頑張りの価値”を決めるのはいつも私であり、自分が好きなことに対して行動することで評価される

 人間の欲望は飽く無き、そして果て無きもので、ゴールしてしまえば次のゴールに向かってしまう業を所持している。どこかで満足しなければ、それは永劫に継続していく。”限りない頑張り”の先に待っているのは”限りない頑張り”である。

 努力して得た結果の先にあるのは、さらに結果を求められ、努力が必要になる。

 この限りない”頑張り”は穏やかさを脅かす存在である。

 お金があっても、有名になっても人はいずれ死ぬ。毎日、キリキリ勉強したり仕事をしても、人間の食えるご飯の量には限界がある。

起きて半畳寝て一畳、天下取っても二合半

 人は必要以上の富貴を望むべきではなく、満足することが大切であるという教えであり、人間が必要な広さは、起きている時が半畳で、寝ても一畳あれば足りるということである。人間が生活するのに、人間が生きていくのに、それほど多くのものはいらないし、必要以上に多くを望んでも、結局は使うことが出来なので、仕方がない。

 確かに、人生とは再現性のない一過性のものだから、失った時間は戻せないし、失敗も許されない。周りと比べて落ち込んでしまう時もある。今は評価された”頑張り”が心無い”自己責任”という言葉で片付けられてしまう。

 諦め、道を外れれば、それ以上の進歩はその道において存在しない。今の世の中は、ハンドルで例えると”遊び”の部分がほとんど存在しない。淘汰され、効率化された”頑張り”はとても息苦しく感じる。継続すれば、必ず成果(良いか悪いかは判断できない)は現れる。

 だが、人間にはそれぞれ得意なことと不得意なことが必ず存在する。また、それを正確に認識することはできない。そして、認識の先に解決策が掲示されるわけでもない。しかし、自分ときちんと向き合い、問題を設定し、前提認識を完成に近づける行為を怠った先にあるのは、”限りない頑張り”であり、経過する時間とその成果のギャップの袋小路へ進むことになる。

 自分を受け入れ、現実を見て、未来を想像し、今をつくる。そして、他人も同様の悩みを抱えながら前に進もうとその人なりに行動しているということを念頭に置く。頑張っていない人なんかいないよ。

 今は大きく見えるその「頑張らなければならない状況を否定する」という大きな壁を超えた先の障害は、”限りのある頑張り”の成果として自分の認識を遥かに超える大きなものになると思います。

 でも、たまには、今行なっている作業から離れて、朝からお外でお酒でも飲んで落ち着いていこう。そして、行為についての認識を改める。本当に好きなことか考えてみる。好きなら好きじゃなくなるまで続けてみる。その”頑張り”が正しいものかを判断することも私にしかできないのだから、、、

 もし、kidsの頑張りが無駄と感じてしまったら私が名前をつけて夢に書きかえてあげよ〜。

 今回の【rouund-3】は「限りない”頑張り”からの解放」でした。結果なんてタダの結果じゃん。自分が何をしたいか。何になりたいか。それを続けていくことが”穏やかな暮らし”になるんじゃないかな?

あ〜、夢みたいなユメ見たいな〜。

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次回:【round-4】意図せざる結果とその認識

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