与えられた主体性-individuality-【round-7】

 今の時代は主体性が求められます!大切なのは主体性です!主体性を身に着ける教育を!

 なんか疲れちゃうな~。でも、私たちが生きていく中で、主体性とは何か、身に着けるべき主体性とは何かを教わることは多くはない。もう大人なんだから自分で考えて行動しよう!と言われても難しいものがある。

 主体性を身に着けるという過程で身についた主体性は本当に人々が求める主体性であるのか、その行為自体が主体的と呼ばれるものから離れているのではないのか、などと考えてしまうと思います。

 それでは、「【round-7与えられた主体性」です。どうぞ。

 「主体」や「他者」といった基本的な概念については、その定義について学界内部的な合意形成ができているわけではないことを前提に、議論に複雑性を温存しつつ、見晴らしの良いものにしたい思います。

主体性とは何か。

主体性」とは「主体」が他と関わっていく中で現れてくる、性質としての属性である。

 主体=主観と同じ意味で、認識し、行為し、評価する我をさすが、主観を主として認識主観の意味に用いる傾向があるので、個人性・実践性・身体性を強調するために、この訳語を用いるに至った。⇔客体→主観 主体的=ある活動や思考などをなすとき、その主体となって働きかけるさま。他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場に置いて行うさま。主体性=主体的であること。また、そういう態度や性格であること。

  以上に関連して、哲学用語として用いられる”主体”という言葉は、”主観”という言葉に対して、新たに訳出されたものである。主体・主体的・主体性という言葉は一般的な言葉でもありながら、専門的には哲学の中で触れられることが多く、その中では、主観という言葉に対比して、実践性を伴う言葉として用いられている。一般的にも主観的といえば、ものの見方のみを指すことが多いが、主体的といえば、主体的に行動するという言い方のように対象に関わっていく自己としての意味合いを含んでいる。

 さらに”主体的”の意味としては、さらに他によって導かれるのではなく、自らの純粋な立場で行うこととなっており、その中では、行為の主体という意味ならず、他によって導かれないといった他者との関係性の問題についても触れられている。続く主体性の意味では、そういった態度や性格とも述べられており、主体性が自己の属性としての性質であるとの意味とも取れる。主体性といった言葉は一般的にも広く使われる言葉であるため、日頃特に専門用語として取り扱われることは少ないと思われるが、哲学の中で主観に対する言葉としての主体を考えた場合は、態度や行動の中で表現される本人の属性であると捉えることが妥当であろう。主観性という言葉には、主観性を「判断の対象から距離をとって、対象を向こう側に置いて、対象に巻き込まれない冷静な態度でこれを判断しようとする立場」とするように、対象への自己の関わりといったニュアンスはあまりないように感じられる。

 一般的な用法の中での主体性は「主体性がない」「主体性に欠ける」といった使い方をされるが、その中では、自分の意見がない、自分から自発的に取り組んでいないといった行動場面での用法から、自分としての落ち着きがない、自己が不安定であるといった、静的な意味の中でも用いられる。

主体性について考える場面はいつか?

 日常での主に対人関係の中で、自分の意見を持ったり、主張したり、あるいは行動に移る際に、 いかに他者に左右されているかという経験である。そのこと自体は取り立てて特別なことでなく、一般的なことだと思われるが、それが高じて他人に過度に依存的になってしまうことで、自分の意見さえ持てなくなってしまう状況もあるのではないか?

 そのことで、自分で下したはずの判断でありながら、どこか自分の意見ではないような、他者からの影響の大きさを感じずにはいられないこともあるはずだ。 その感じは、絶えずあるわけではなかったが、そのような時、自分の「主体性」のなさを感じてしまう。このようなことは、他者を自分と違った存在として意識し始めた思春期から生じ始めたことであり、同時に自己についての意識が大きく現れるようになってからだと思われる。

 そして、自己の「主体性」の在り方が、自分を方向付け、自分を安定させることに大きな影響があると私は考えた。

 私たちは常にある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分達が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」、「感じさせられ」、「考えさせられている」。そして、自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題になることもない

 私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自立性は限定的なものである、という事実を掘り下げていくことは困難である。

 このような状況下において、主体的を意識した行為というものは可能であるのか、、、

 また、私たちは自分が何者であるかを熟知しており、その上で自由に考えたり、行動したり、欲望したりしているわけではない。人間はある外在的な規範の「奴隷」に過ぎないと考える見方もある。

 そして、人間が直接知ることのできない心的活動が人間の考えや行動を支配している場合がある。この「当人には直接知られず、にもかかわらずその人の判断や行動を支配しているもの」、それが「無意識」である。すべての心的な症状は、その背後に「本人が意識することを回避している、無意識な過程」が存在している。それは、人間は自分自身の精神生活の主人ではないことを表している。

 私たちは自分を個性豊かな人間であって、独特の仕方でものを考えたり感じたりしているつもりではいるが、その意識活動の全プロセスには、「ある心的過程から構造的に眼をそらし続けている」という抑圧のバイアスがかかっている。人間主体は、「自分は何かを意識化したがっていない」という事実を意識化することができないという知見に繋がる。

 つまり、主体性を持つことの難しさ、そして、主体に向き合うこと自体が困難であるといえる。

  主体という言葉は、もはや認識構造における認識者としての自我を指すのではなく,行為の場面における「行為主体」としての,つまり、社会状況の中で実存し行動するエイジェントとしての自己を指すことになっていることがこれまでの議論で分かった。

 ここで、私たちの日常的に使用される”主体性”とは何なのかを考えるため、主体的という表現を細分化してみる。おおよそ、その尺度として考えられる因子は以下の5つである。

・積極的な行動
・自己決定力
・自己を方向付けるもの
・自己表現
・好奇心 

これをまとめると、①積極的な自発的行動、②自己決定力、③自己表現、の3つに集約できる。

 ①積極的な自発的行動は,自発性を中心とした 行動・態度に表れる内容である。②自己決定力は,他者に左右されることで自分の判断が揺らぐ内容であり,自己の決定に関する項目である。③の自己表現は,言語的な表現を中心としながら,自分を外界に向けて表現する内容である。

 このように細分化すると、一般的な主体性と行為者としての主体は離れた位置にあることが理解しやすい。

 一般的な主体性とは、自分の役割や立ち位置を考え、意思に基づいて責任を持って行動することとされ、「これからどうするのか」「何をするのか」が決まっていないという状態でも、目的を考えて正しく成果に向かうためにはどうすべきなのか、どういうアクションを起こすべきなのかを模索することとなり、主体性というのは、状況を判断して自分で意思決定をしながら、実行に移す力のことであると知覚できる。

 しかし、これまで述べてきたように、意思決定の過程の中で主体と意識は自分が生きる経験や所属において成されることが分かる。そして、主体性を評価すること自体にも他者の介入が入り込むことが避けられないため、主体性を持っているかを判断することはできない。

 主体性を持てという言葉はそれぞれの都合に合わせた行動を指し、ただ行為に対して責任を押し付けるための表現になっているのではないかと私は考える。いわゆる自己責任というものだ。主体的に行動したんでしょ?では、あなたの責任ね。主体的に行動する、主体性を持つ、これらの言葉は決定に他者を介入させず、自己の判断として処理される便利な道具である。

 主体的に行動するという言葉は結果が成功した時に初めてその価値を持つ。結果として、都合が悪くなった場合には指示を出していない、勝手に行動した、責任は行為者にある、などと処理される。

素晴らしい時代。

 これまでとは相対的に考えて、男も女も関係なく、同じ夢をみて、同じ評価がされやすい時代。生まれによらず、自己が認識される時代。自分を表現すること主体性が求められる時代。主体性を身に着けさせる教育。そんな素晴らしい時代

 主体性を評価できないのにも関わらず、この主体的に動くことが求められている社会は、本当に私たちにとって素晴らしいものなのかは私には判断できない。

 上の写真のコンクリートの隙間から綺麗に咲いている花だって、結果として咲いたので評価されているが、咲かなければ勝手にコンクリートに入り込んだバカな種として処理されるであろう。もしかすると飼われているヤギより自由がないかも。

 本当に主体性が求められ、真の評価されるのであれば、みんな自分が好きなことを好きなだけできる。でも、それはどうやら叶いそうにない。それは人々が共存する社会では難しいからだ。

 それでも私は花のようにいつも上を向いていきたい。もしかしたら、私たちが主体性が無くて苦労しているということも、便利な言葉として使用しているだけかもしれない。本当は勇気がない自分がいるだけのなのかもしれない。

 誰かに「自分がないよね」「主体性を持て」と言われても、それは周りに合わせた決定や行動をできているということだと考えれるし、悪い事ではない。そして、別に自分でしたいことが無くてもいいと思う。そのままの自分でいいと思う。分からなくなれば周りに聞けばいい、マネをしてもいいと思う。皆と同じ行動で十分。その中で自分が気持ちいいな、好きだなと思うことに対して、少しだけ勇気を出して踏み出してみる。

 与えられた主体性は、もはや主体ではない。主体的という言葉に振り回された結果として、いつの間にか自分の事が嫌になっていく可能性もある。自分が何か分からなくなってしまう。それじゃ穏やかに暮らすことはできない。

 穏やかに暮らすために主体性はいらないと思う。少しだけ勇気を持って、おもしろそうな事をしてみる。主体性なんかなくても自分は自分。それは変わらないから。大切なのはいつも自分らしく!

 もしかして、自分がタピオカばかり吸っているのも主体的とは言えない???

あ〜、夢みたいなユメ見たいな〜

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【round-7】与えられた主体性 -individuality-

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次回:【round-8】社会はタピオカを吸う-tapioca-

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