意図せざる結果とその認識 -upset-【round-4】

 みんなは、行動や言説を意図して結果に反映することができているだろうか?

 こんなはずじゃなかったのに、もっと上手くいくはずだった、計画通り!(`・∀・´)、俺たちは未来からやってきた!、丸っとお見通しだ!、、、

 この問題が解決しているのであれば、世界はもっと良くなっているはずだと思います。経過を含めて、予期した、計画通りな、意図的な操作を行うことは、ほぼ不可能に近い。つまり、「意図せざる結果」は行為者にとって逃れることができない宿命であるといえる。

 ということで、今回は”意図せざる結果とその認識”です。どうぞ。

 意図せざる結果とは、「個々の行動が集積することによって個人ないし集合(社会)に対して生じる結果であり、行為者が追求する目的には含まれないもの」である。

 この定義からも推測できるように、”意図せざる結果”はミクロからマクロへとダイナミクスな問題となっている。社会科学の古典の中にはアダムスミスの「神の見えざる手」やマックスウェーバーの「資本主義の<精神>の形成」などが代表例と言えるだろう。

 それは、意図を持った行為主体間の相互作用に注目して環境のメカニズムやダイナミクスを記述する行為のシステムにおいては、行為と意図との連鎖から生まれる「意図せざる結果」が重要な概念となる。

 あらゆる出来事が全て連関しあっている以上、必要とされる手段を用いた場合に、達成されるであろう所期の目的とは別に、どんな結果が起こるかを確定することができる。こうして我々は、行為するものに、その人の行為によってもたらされるはずの所期の結果と、予期しない結果とを比較的検討する可能性を与える。そればかりではない。所期の目的を達成するためにはそれとは別の価値を実現を妨げる恐れがある。

 そもそも原理的に、我々の意思決定には、選択の自由が存在する。そのため、選択の自由を持つ「行為」そのものと、選択の対象とならない「その他現象」(環境)とを分離して捉える必要がある。ここで、行為とは自己原因の「意図した結果」の追求のことを指す。つまり、将来に向かって、自分が意図 した結果を作り出すために行うのが行為である。

 行為者は自分が置かれている環境の認識と、それを受けて策定した将来の目的を達成するための行為の指針を基に、自らを状況に投げ入れる。この時、現在の行為は、選択の自由があるため、現在より後の因果連鎖を不確実にする。つまり、行為は自らを原因にするという性質を持つと言える。

 現代は”意図せざる結果”から生じる矛盾の問題は軽視されている。

 社会慣行の予測される結果は顕在的機能、一方、意図していない結果は、潜在的機能と考えられる。顕在とは、はっきり目に見える形をとってあらわれていることである。潜在とは、表面にはっきりと表れないが、内部にひそかに存在することである。

 この潜在的機能を正しく認識することが求められるのは言うまでもない。

 行為の際、ある環境の中で重要な因果関係が網羅されている(影響度の小さいものだけが捨象されている)場合、行為は、結果として「意図した結果」を、つまり、策定した手段どおりの結果を引き出すことができたと解釈しえる。しかし、環境の解釈、策定された行為の指針は部分性を持っているため、結果として引き起こされる因果連鎖は、多かれ少なかれ意図通りとはならない。つまり、因果連鎖の本質上「意図せざる結果」は宿命的に生起することになる。

 意図せざる結果には次の3種類ではないかと考える。

 ( 1 )意図した結果が生じなかった場合、( 2 )意図した結果も生じたが意図したのとは異なる結果も生じた場合、( 3 )意図した結果が生じたがその生成経路が異なっていた場合である。

 この3種類は言葉通りであり、分類しようとすれば、さらに細かな分類が可能である。

 しかし、我々は、全ての”意図せざる結果”を機能と結びつける必要はないと考える。「結果」の判定(評価)は個人(行為者)の水準においても行われるのであり、常に社会の「機能」に照らして評価されるわけではないからである。

 では、どのようにして意図せざる結果と向き合っていけば良いのか。

 それは大きく分けて、”現実認識の深化による「読みの深化”と、”結果として生じた意図せざる結果への「対処」”がある。1つ目の「読み」は、行為の前に深く深く意図せざる結果を予想することであり、まさに「読み」と言える。2つ目の「対処」は、意図せざる結果の後の対処である。私はこの2番目の”対処”が重要であると考える。それは、1つ目の「読みの深化」はあくまでも、”意図せざる結果”の度合いを和らげるものにしかならないと考えるからだ。

 この二つに共通しているのは、心を広く持つ、つまり、”穏やかに考える”ということである。

 ”意図せざる結果”を受け入れることこそが”穏やかな暮らし”に繋がるんじゃないかな?

{上の画像はヘッダー画像作成で失敗(❌穏やかやな→⭕️穏やかな)したもの。こんなこともある。意図していない。}

 良い結果になればラッキー、悪い結果ならそんなもんでしょ、と割り切る。【round-3】の限りない”頑張り”からの解放の話に繋げられると思う。やっぱり人間には無理やねん、結果を意図するなんて。それって結果と呼べるものなの?

 結果がわからない方が面白いじゃない。何が先に待っていようとも、「面白いな〜、楽しいな〜。」って穏やかな心で受け入れて毎日を過ごす。そろそろ誰か私と一緒に暮らしてくれないかしら?そこは意図的でお願いしたい。

あ〜、夢みたいなユメ見たいな〜

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【round-4】意図せざる結果とその認識 -upset-

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